焚き火と祖母の思い出

キャンプで何をやるか?

テント泊、BBQ、温泉、星空観察、川遊び、いろいろな選択肢が考えられる。

ただ、我が家のキャンプ、もとい自身のキャンプの中心は間違いなく焚き火だ。

今回の記事はキャンプとはほとんど関係がなく、自身の焚き火のルーツを自己満足で記す備忘録となる。

自身の焚き火のルーツ

今日は祖母の3回忌らしい。

らしい、というのも妻に言われて気づいたからだ。

旦那のばあさんの命日をよく覚えているもんだと感心する。

人の記憶は薄らいでいき、そのうち消えてしまうものかもしれない。

祖母との楽しかった思い出を忘れぬよう記しておきたいと思う。

 

私は祖父、祖母、父、母、長男、長女、次女の7人家族の長男として生をうけた。

実家は自営業を営んでおり、まさしく家族経営の会社の跡取りとして祖母から期待されていたように思う。

祖母からは繰り返し、

「お前は跡取りだから。」

「お前は長男だから。」

「お前は・・・」

今にしても思えば、子どもの可能性を狭めるひどい言葉だが、幼少期にはそういうもんなのか、と思った。

祖母は浜育ちで言葉が荒く、お金に執着があり、いわゆる世間が描くような良いおばあちゃんではなかったのかもしれない。

ただ、自身にとっては唯一無二の祖母であり、代え難い楽しかった思い出があるのが事実。

そのひとつが焚き火だ。

爆ぜる薪と焚き火

前述の自営業で海岸の清掃を祖母は担当していた。

海岸といっても砂浜ではなく、コンクリートで固められたスロープと呼ばれる海岸で一般の方は馴染みがない。

そんなスロープには波によって木片、竹、そして発砲スチロールやビニールなどのゴミが堆積する。

それを集め、処分するのが祖母の仕事だった。

家族経営であるため、自身および妹たちはほったらかしで、自由気ままに過ごしていたように思う。

自由気ままといえばきこえはいいが、自分でおもしろいことを探さないと楽しくないのが現実だ。

そんな少年の興味が注がれたのが祖母との焚き火だった。

焚き火といっても海岸に打ち上げられるゴミを集めて燃やすだけ、という今では通報されるようなレベルのものだが、なぜか楽しかった。

燃えやすいものを下に設置し、その上に順を追って燃え難いものを設置していく。

こうしないとうまく炎が成長しないため、子どもながらにどうしたらうまく燃えるか考えた。

また、なんで扇いで冷ましているのに炎が大きくなるんだろう、と素朴な疑問を無視して兎に角燃やしていた。

こうした試行錯誤がおもしろく、自分の思い通りになったとき、さらには想定していなかった結果、つまりは大炎上すると最高にエキサイティングだった。

最終的にたどり着いた答えは、発泡スチロールを燃やす、ということだったが燃焼という自然現象を自由に体験できたのは自身の形成に大いに影響したと思われる。

人類が人類たる所以は炎を扱うことから始まったのだと考えられるが、単純に火遊びが楽しかったんじゃないかとも思う。

焚き火は楽しい

中学生にもなる頃には海岸でゴミを燃やしてはいけなくなり、楽しかった焚き火と疎遠になった。

高校(正確には高専)に入り、材料というものに出会い、「物質」に人間が手を加えて「材料」にかえることになぜか興味をもった。

世の中はモノによって構成されており、そのモノを形成する材料はすごい、と思ったのだ。

うまく説明できないが、材料の性能をわずか1%でもあげることができれば、社会のレベルが大きく変わることになるような気がしていたのかもしれない。

そのまま大学に進み、モノが壊れることを扱う破壊力学という学問に出会い、学んだついでに一般企業に就職した。

企業に入ってからは、わからないこと、まだ解明されていないことが実際の社会には多くあることに気づいた。

これはおもしろい、と思ったが最後、祖母の邪念にも似た呪文「お前は跡取りだから」から逃れられた。

両親は継げとは一言も発しなかったが、なんとなく踏ん切りがついたように思う。

思い出と焚き火

社会人生活10年を越え、祖母が入退院を繰り返すようになり、2015年11月27日に亡くなった。

生前の祖母は自営業ではないが企業で働く私のことを、誇らしく周りに自慢してくれていたようだ。

家業も継がず、自分の興味のあることだけしかしない孫を気にかけてくれていたのはうれしいものだ。

祖母が亡くなり、しばらくしてキャンプに出会った。

キャンプ自体もおもしろいが、自分の子どもに試行錯誤することの楽しさを知ってもらいたいがためだ。

初めての道具は当然焚き火台。

キャンプで焚き火をすると、今でも祖母との焚き火を思い出す。

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